(3) 和田尋常高等小学校のころ
上箱井に学校がうつる
岡原校、栗原校、今泉校、寺町校では、学校ができてからも、そのままの校舎で勉強したり遊んだりしていました。子供たちの数が増え、校舎もせまくなりました。また、校舎は、古くて危険でもありました。
そこで、1916年(大正5)8月12日、下板倉尋常小学校と和田尋常高等小学校をあわせて、上箱井に和田尋常高等小学校が開校し、尋常科(6年)と高等科(2年)がおかれました。
校舎を建てる仕事も進められました。翌年(大正6)の10月3日には校舎もでき、10月16日からは、新しい教室でも勉強も始まりました。
和田尋常高等小学校をつくることになると、それまでの国明尋常小学校は「和田第1尋常小学校」、今泉尋常小学校は「和田第2尋常小学校」と校名が変わりました。
通学区域
では、和田尋常高等小学校のころ、子供たちは、どのあたりから通学してきたのでしょうか。
まず、尋常科の子供たちは、上百々・広島・木島・島田上新田・島田・島田下新田・下箱井・岡原・五ケ所新田・丸山新田・中箱井・上箱井・石沢・寺町・西田中・下新田から通学してきました。上百々、広島は、今は、妙高市(旧新井市)になっています。
1924年(大正13)1月に、和田第1尋常小学校が、和田尋常高等小学校の分教場(分校)となると、5、6年生は、和田尋常高等小学校の尋常科に通うことになりました。そのため、国賀・月岡・栗原・柳井田(すべて旧新井市)からも、通学してくるようになりました。
また、和田第2尋常小学校へは、今泉・荒町・茶屋町・脇野田・七ケ所新田・土合・高田新田と、島田下新田のうち瀬違という地域の子供たちが通学しました。
和田尋常高等小学校の高等科へは、和田村全体から通学してきています。
遠足や学芸会
このころ、遠足は、南葉山への登山でした。1・2年生は山のふもとまで、3・4年生は山の中ふくまで、5・6年生は頂上まで登りました。
運動会は、尋常高等小学校、第1尋常小学校、第2尋常小学校の3つが集まり、和田村小学校連合運動会が開かれました。高田中学校運動会では、高等科の子供たちが優勝、尋常科の子供たちもリレーで優勝しています。
海水浴は、5年生以上が信越線の汽車にのって、五智海岸へ行きました。学芸会もありました。1923年(大正12)2月20日の学芸会は、姉崎、新井、斐太、春日、安塚などの先生方、和田村の人々など、やく2,000人が集まって行われました。
関東大震災と大雪
1923年(大正12)9月1日の、午前11時58分、関東大震災がという大地震がおきました。東京とそのまわりの1府8県で、死んだ人90,000人、けが人100,000人、壊れたり燃えたりした家680,000けん、つぶれた家14,000けんの被害でした。このうち、東京市(今の東京都)だけで、死んだ人58,000人、もえた家300,000けんにもなりました。学校では、このよく年、見舞い金を集めました。そして、集まった62円68銭は、和田村役場に届けています。
大雪で、学校が休みになることもありました。
1926年(昭和元)2月9、10日は、雪がふり続きました。道はすべて雪でうまり、たくさんの子供たちが欠席しました。11日からは夜どおしで雪おろしをしました。1階は、屋根からおろした雪でまっくらになりました。14、15日は休校になっています。19日の夜からまた雪がふりだしたので、高等科の子供たちは、校舎の雪おろしをしています。
青い目の人形
1927年(昭和2)5月7日、学校にアメリカから青い目の人形が送られてきました。日本とアメリカの子供たちに、もっと友好をふかめてほしいという願いからでした。
そのため、日本とアメリカとで、人形を交かんすることになり、青い目の人形12,000体が、日本各地の学校へ送られてきました。日本からも、日本人形を送りました。
和田の子供たちのところに送られてきた青い目の人形は、名前を「カザリン」といいました。7月8日、カザリンの歓迎学芸会が開かれました。全校の子供たちと先生のほか、お客さまやお家内の方など、約300人が集まりました。
先生方も日本人形を持ってきました。名前は、「和田昭子」です。大正から昭和になってまもないころのことですから、先生方は、和田村、あるいは和田尋常高等小学校の「和田」と昭和の「昭」をとって、この名前をつけたのではないでしょうか。カザリンは、和田昭子や子供たちが持ってきた人形といっしょに、ステージにかざられました。カザリンをむかえる作文を読んだり、童謡を歌ったり、げきをしたり、展覧会も開かれました。
ところが、それからまもなく、日本は、中国と戦争をはじめました。1937年(昭和11)のことです。1941年(昭和16)12月には、アメリカとの戦争がはじまり、日本は、世界の国々を相手にする戦争への道を進んでいきました。
アメリカとの戦争がはじまると、カザリンは、敵の国の人形ということで、土の中にうめられてしまったということです。日本に送られてきたほかの青い目の人形も、多くは、竹やりでつつかれたり燃やされたりしたそうです。
校歌と校旗
校章と徽章は、1918年(大正7)11月に決まっていましたが、校歌(川合直次作詞・小出浩平作曲)は、1932年(昭和7)5月13日、文部省に認められています。
一 三山高くそびえたち
二水静かに流れゆく
頸城平のただ中に
我が大和田の村はあり
二 春は若葉に麗陽の
匂ひて瑠璃の雲迷ひ
秋は重穂にそよ風の
吹きて黄金の波寄する
三 美しき村よき村の
ここに住ひて朝夕を
物学びする幸福や
ひとへに思ふ国の恩
四 国に報いむ一つとも
行修め業励み
人と人とは睦び合ひ
世をほがらかに送らばや
このよく年(1933年 (昭和8) )には、同窓会のみなさんがピアノを寄付してくださいました。ピアノは、1台1,800円でした。1935年(昭和10)9月には、校旗もできました。