3. む か し 話 と 伝 説 


 和田には、瀬渡橋の話や、キツネにばかされた話、大蛇 のひ害から子供たちを助けた話など、むかし話や伝説が伝えられています。
 これらの話は、川と人々のくらし、キツネにばかされた 話からは、話のおもしろさだけでなく、キツネと人々のむすびつきなども感じられます。

 (1) 瀬渡橋の話

 瀬渡橋     矢代川にかかる瀬渡橋は、上越市と新井市や長野方面、あるいは上越市と高田・新潟、北陸方面をむすぶ道ろにかけられたたいせつな橋です。
 しかし、瀬渡橋のあたりは、むかしから矢代川のこう水 がおこりやすいところでした。このこう水をふせぐため、1914年(大正3)5月から、堤防をなおす工事がおこなわれました。瀬渡橋のたもとには、堤防ができたことを記念する石碑があります。 また、瀬渡橋は、1933年(昭和8)には、鉄きんコ ンクリートでできた永久橋にかけかえられています。この橋は、上越地方で、はじめてつくられた永久橋でもあります。



 この瀬渡橋は、背渡橋・瀬端橋・今泉橋・茶屋町大橋など、いくつもの名前をもつ橋でもあります。今泉橋・茶屋町大橋は、近くの町名を橋の名前につけたのではないかと
思われます。でも、背渡や瀬端がついたのには、なにかわけがあるようです。瀬渡橋には、橋がなかったころや、橋ができたころなど、つぎの(1)から(3)のような話が伝えられています。このいい伝えから、背渡や瀬端がついたひみつをさぐってみましょう。

瀬渡橋の話(1)   むかし、らんぼうな男たちにおいかけられた、旅の僧がいました。やっとのことで、茶屋町までにげてきました。しかし、矢代川が横たわっていて、にげることができません。どうしてにげようかと、考えこんでしまいました。そのときです。川の中から大蛇があらわれました。そして、茶屋町と石沢にかかる橋のようになり、「さあ、わたしのせ中をわたってにげなさい」といいました。
 僧は、よろこんで大蛇のせ中をわたりはじめました。そして、僧が川をわたりきると、大蛇のすがたは、いつのまにか見えなくなっていました。僧をおいかけてきた男たちは、びっくりして、いつまでも川を見つめていたということです。
 その後、ここに橋がかけられました。はじめは「茶屋町大橋」といいましたが、いつのころからか「背渡橋」、あるいは「瀬渡橋」とよばれるようになりました。

 瀬渡橋の話(2)   むかしのことです。いつのころだったでしょうか。ある殿さまが、参勤交代でここをとおりかかりました。ところが、こう水のためでしょうか、橋が落ちていました。殿さまは、川をわたること ができません。いそいで江戸(東京)へいかなければならないので、たいへんこまり、川の流れをみつめていました。
 そこに、大きな大きな木のようなものがうかんできて、茶屋町と石沢にかかる橋のようにかかりました。おそらく、大蛇の背中だったのではないでしょうか。
 殿さまは、いそいでいたものですから、その背中を歩いて、ぶじに矢代川をわたりきることができました。
 そのときから、この橋を「背渡橋」とよぶようになったということです。

 瀬渡橋の話(3)   瀬渡橋は、むかしは「瀬端橋」とよばれていました。江戸時代、1703年(元禄16)に書かれた「今泉村鑑」という記ろくには、越後守さまのときは、「瀬端渡し」といったと書いてあるそうです。もとは、瀬渡ではなく、瀬端とよばれていたようです。
 1746年(延享3)に書かれた「今泉村鑑」という記ろくには、「矢代川の瀬端橋は、今泉橋ともよぶ」と書いてあるそうです。このころには、瀬端橋とよばれていたようです。

 (2) キツネにばかされた話

 キツネにばかされた話(1)  まず、1つめは、キツネが生まれた子ギツネのために、高田のまちへ買い物にいった話です。
 今から、200年ほどまえの話です。和田のあたりは、久比岐野の里とよばれていました。
この久比岐野の里に、しょうじきで、はたらきもののお百姓さんがすんでいました。ある夜のことです。お百姓さんのところに、1ぴきの白いキツネがあらわました。 そして、つぎのような話をしました。 「わたしは、川むこうの名主さんの家にすんでいるキツネです。わたしたちのために、稲荷神社をたててくれるよ う、名主さんにたのんでください。」  といって、すがたをけしてしまいました。お百姓さんは、ふしぎなことがあるものだと思いましたが、せっかくのキツネのたのみです。関川の橋をわたって、名主さんにおね がいにいきました。
 「わたしは、川むこうにすむ百姓です。きのうの夜、ふしぎなことがありました。」
そういって、白いキツネから、名主さんに稲荷神社をたててくれるようたのまれたことを話しました。
 すると、名主さんは、
「そうかい、ごくろうさん。じつは、わたしにもおなじことがあってね。うちの屋敷のキツネがでてきて、子供がいるので、ぜひ神社をたててほしいといって、みえなくなってしまった。これもなにかのえんだ。神社をたてててやることにしましょう。」
 名主さんは、そういって、神社をたてることをやくそくしました。お百姓さんは、それを聞いておおよろこびで家にかえりました。
 さっそく、名主さんは、大工さんや屋根やさんをよびました。それからまもなく、名主さんのひろい屋敷に、りっぱ神社ができあがりました。とおり道には、いくつもの鳥居がたてられました。稲荷大明神と書いたのぼりもできあがりました。名主さんは、川むこうのお百姓さんをよんで、できあがった神社をみてもらいました。お百姓さんは、
「キツネも、たいへんよろこんでいるでしょうね。」
そういって、かえっていきました。
 それから、何日かたった、ある日のことです。高田のまちの呉服やさんが、名主さんの家にやってきました。
「このあいだ、わたしの店に女のひとが、真綿を買いにみえました。お金をもらおうとすると、お金は、関川ぞいの名主さんからもらってください。きっと、お金をはらってくださいますから。そういって、かえっていきました。」
すると、名主さんは、
「そうかい、ごくろうさん。きっと、うちのキツネだろう。」
そういいながら、店の人にお金をはらいました。
 つぎの日、名主さんが、神社の戸をあけてみると、板のうえに、1ぴきのこギツネが、ねむっていました。よくみると、その赤ちゃんギツネの首のまわりには、あたたかそうな真綿がまいてありました。
 それをみた名主さんは、
「ああ、そうか。よかった。よかった。」
といって、家にはいっていきました。今でも、そのひろい屋敷には、稲荷神社がたっているそうです。

 キツネにばかされた話(2)      つぎは、キツネが、酒によった人をだまして、だいすきな油あげや魚をとってしまう話です。
 そんなにむかしの話ではありません。
 田植えのころになると、村の人たちは、田植えのしごとをたのまれて、遠くへでかけていきました。朝、早く家をでて、夜おそくなって家にかえりました。田植えのしごとが終わり、手伝いをたのまれた家で夕ごはんをごちそうになると、そとはすっかり暗くなっていました。ごちそうを つっとこ(わらのいれもの)につつんだおみやげをもらい、暗い夜道を歩いてかえりました。
 このあたりには、キツネやタヌキが、たくさんすんでいました。
 ある日のことです。しごとがすんで、夕食にお酒をごちそうになったおじさんが、気もちよさそうに夜道を歩いていました。手には、油あげや魚など、ごちそうのはいった つっとこをぶらさげていました。道には、たくさんのキツネがさわいでいました。
 その日は、月のない、まっ暗がりな夜でした。おじさんは、いい気もちになって、はな歌をうたいながら歩いていました。でも、おじさんは、いくら歩いても家にはつきません。
「あ〜あ、つかれた。ひと休みしていくか。」
そういいながら林の木の下に、こしをおろしました。田植えのしごとのつかれがでたのでしょう。いつしか、おじさんは、うとうととねむってしまいました。
 しばらくして、おじさんは目をさましました。そして、びっくりしました。目の前にたくさんのごちそうがならんでいます。2人のむすめがお酒をついでくれるではありませんか。おじさんは、とてもよろこんで、すすめられるままに、ごちそうになりました。
 そのうちに、月がでてきました。きれいな月をながめながら、おじさんは、むすめたちとたのしくのんだり食べたりしました。   ところが、あまりにも酒をのみすぎてしまったおじさんは、しごとでつかれていたのでしょう。すっかりねむりこんでしまいました。
 しばらくして、おじさんは、「はっ」と思って目をさましました。そして、びっくりしてあたりをみわたしました。   すると、村はずれのたんぼ道に、1人でいるではありませんか。月のかたむきから考えると、ま夜中をすぎているころです。まわり見ると、おじさんのだいすきな油あげは、みあたりません。ごちそうをつつんでもらったつっとこもありません。おじさんは、気がついたのか、とてもざんねんそうにいいました。
「しまった。キツネにばかされた。」
 いつのまにか、月はみえなくなっていました。はな歌どころではありません。おじさんは、まっくらな夜道を、家へといそぎました。「こんどは、キツネにばかされるもんか」と、自分にいい聞かせながら歩いていきました。

 (3) 白蛇教化の塔の話

 白蛇教化の塔の話   むかし、矢代川と関川は、下板倉橋(瀬違橋ともいいました)のあたりで流れがひとつになっていました。そして、そこは、ふかい淵(よどみ)になっていたそうです。夏になると、子供たちは、このふちで水遊びをしてたのしんでいました。
 ところが、ある夏のことです。ここで水遊びをしていたひとりの子供が、ふかみにはまり、おぼれて死んでしまいました。   それからというもの、子供たちが、つぎからつぎへとふかみにはまって死んでしまいます。ふしぎなことに、死体はひとつもうかびあがってきません。
 村の人々が、ふしぎに思って、修験者にうらなってもらいました。すると、修験者はつぎのような話をしました。  「このふかいよどみには、白い大きな蛇がすんでいるのです。子供たちの死体があがらないのは、この蛇にのみこまれてしまうからです。」
 村の人々は、たいへんおどろき、子供たちが安心して水遊びができるようにするためにも、なんとかこの蛇を退治したいと考えました。しかし、なかなかいい考えがうかんできません。
 そうこうしているうちに、水遊びの子供たちだけでなく、川の近くで遊んでいた子供たちまでもが、ふかいよどみの中に、ひきずりこまれていくようになってしまいました。村の人々は、こわくなってしまい、川のむこうへいくにも遠まわりをしました。村をすててほかの村にうつりすむ人もいました。
 こんなことがつづいたある日、蓮如上人という僧がとおりかかりました。この日、蓮如は、願誓寺(今泉の願清寺)に泊めてもらったそうです。ちょうど、この夜も、願誓寺では、村の人々があつまり、大蛇を退治する話し合いをしていました.
 この話を聞いた蓮如は、
「みなさんがこまっていることは、よくわかりました。その蛇は、このわたしが,ほとけの道でおしえみちびいて(教化といいます)あげましょう。」
といいました。
 蓮如は、願誓寺の本堂にこもって、お経を読みつづけました。お経を読みはじめて21日目、この日は、ねがいがかなう満願の日です。  村の人々が、川へいってみると、白い大きな蛇の死体が川にういているではありませんか。
 そこで、みんなで蛇の死体をひきあげ、願誓寺の境内にうめました。そして、そのうえに五輪塔をたてました。
 人々は、この塔を「白蛇教化の塔」とよんで、おまいりをしました。この塔は、今でも今泉の願誓寺にのこっています。