4. 学 校 の う つ り か わ り 


 1872年(明治5)年、明治政府は、新たに教育制度をととのえ、職業、身分、男女のべつなく、だれもが、おなじように教育をうけられるようになりました。
 この制度がととのえられてから120年あまりの間に、わたしたちの和田小学校は、どのようにうつりかわってきたのでしょうか。

(1) 学校ができる前

寺子屋    学校ができる前、江戸時代から明治のはじめにかけて、和田では、どのような教育がおこなわれていたのでしょうか。
 そのころ、子供たちは、木島、島田、下箱井、石沢などにあった塾や寺子屋でべんきょうしました。
 先生は、村役人や医者、神主、僧などをしていた人たちでした。そして、自分の家や寺などで、塾や寺子屋をひらき、読書(読み)・習字(書き)・算術(そろばん)などをおしえていました。
 木島の遠藤権四郎は、1831年(天保3)2月に生まれ、18才で塾をひらきました。それは1850年(嘉永3)ころにあたります。権四郎のところには、木島をはじめ寺町・上新田などの50人くらいの生徒が、べんきょうにきていたそうです。
 島田では、それより前に、村の庄屋をつとめた関慶太郎が、生徒をあつめて、読み・書きをおしえました。慶太郎の家は、師匠(先生)という意味で匠様とよばれました。慶太郎は、庄屋としても、川や道、用水など、村の政治につくしたといわれています。また、阿部玖三も、江戸時代のおわりころに、塾をひらいて、おもに漢学(儒学、中国の学問)をおしえました。入善寺の僧早川諦観も、寺子屋をひらいて、読み・書きをおしえました。
 下箱井では、諏訪神社の神主の岩片左京・和泉の親子が寺子屋をひらきました。そして、近くの生徒に読み・書きをおしえました。
 石沢では、川澄林平(修斎)が、京都へいってべんきょうしたのち、石沢にもどって生徒におしえました。近藤玄貞は、医者でしたが、しごとのひまをみては、寺子屋をひらき、生  徒におしえました。玄貞は、江戸(東京都)の医者の家に生まれました。のちに越後(新潟県)にきて、石沢にすみました。玄貞は、オランダの医学(蘭学)を学んだそうです。そ  して、天然痘をふせぐために、種痘をおこないました。この種痘は、頸城郡の種痘のはじまりだそうです。

筆 塚     塾や寺子屋の生徒たちは、先生の学問のすばらしさをたたえ、先生への感謝の気もちをこめて、筆塚をたてました。
 『和田村誌』には、わたしたちの和田に、つぎの筆塚があると書かれています。

先 生 場 所 筆塚がたてられた年月
遠藤権四郎 木 島 1885年(明治28)4月
関 慶太郎 島 田 1923年(大正12)
岩片 左京 下箱井
川澄  林平 石 沢

(2) 学校ができたころ

和田小学校のはじまり     わたしたちの学校の創立記念日は、いつできたのでしょうか。1872年(明治5)年に教育制度がととのえられてからまもなく、わたしたちの和田には、岡原校・寺町校・栗原校・今泉校が、つぎつぎにたん生しました。

岡原校   1873年(明治6)10月16日に、島田(岡原バス停りゅう所のあたり)に「岡原校」ができました。
 岡原校は、「第5中学区第6番小学」として、仮に開校したようです。そして、1875年(明治8)3月3日、文部省から正式に開校することがみとめられ、校名も「第5中学区公立第6番小学岡原校」となりました。     その後、岡原校は、つぎのように校名がかわりました。
  ・ 第10中学区第7小学区岡原校。
  ・ 第10中学区第8小学区公立岡原校。
  ・ 下板倉村立下板倉尋常小学校。(1892年 (明治25))

寺町校   1878年(明治11)1月には、「寺町校」ができました。場所は、西田中の諏訪神社のあるところです。
 寺町校は、1892年(明治25)9月には、大倉尋常小学校、1904年(明治37)4月には、和田尋常高等小学校となり、高等科の子供たちがつう学する学校となりました。

栗原校と今泉校   岡原校ができたよく年、1874年に、「栗原校」と「今泉校」ができました。栗原校は、今の新井市立新井北小学校、今泉校は、今の上越市立大和小学校のはじまりです。
 今泉校は、いつごろからかは、はっきりしませんが、岡原校の付属校になったようです。その後、1885年(明治18)には「第10中学区第7番小学公立今泉校」となっています。
 この今泉校に、石沢の子供たちがつう学したことがあるようです。1887年(明治20)9月の記ろくに、つぎのように書いてあるからです。
  ・ 尋常小学校を、今泉村につくる。校しゃは、今泉校の校しゃをつかう。
  ・ この組合は、高田新田村、荒町村、脇野田村、今泉村、土合村、七ケ所新田村、石沢とする。
  ・ 校名は、尋常今泉小学校とする。
  ・ 石沢は、学校まで遠く、冬のつう学がたいへんなので、1月から3月までは、学校の先生1人が石沢にいって、子供たちにおしえる。
 教育制度がととのえられてからまもないころの、4つの学校のようすをみてきました。その中から、和田小学校の創立  記念日は、岡原校ができた10月16日としていることに気づいたことと思います。
 しかし、「学校のうつりかわり」を読んでいくと、60周年や70周年と120周年では、計算のしかたのちがいに気づく人がいると思います。
 それは、上箱井に和田尋常高等小学校ができた1916年(大正5)8月12日からかぞえて、60周年・70周年と考えたときと、岡原校ができた1873年(明治6)から考えたときのちがいによるものです。
 これらのことも、わたしたちの和田小学校が、長いあゆみの中で、いろいろとうつりかわってきたことや、学校や地いきの人たちのねがいを知る1つの手がかりといえましょう。

 べんきょうのようす    学校には、小学・中学・大学がありました。小学校へは、すべての子供がかようことになりました。小学校の入学は満6才、下等小学4年、上等小学4年、あわせて8年でした。1878年(明治11)には、新潟県の小学校のきまりができました。それは、つぎのようなものでした。
 ・ 1週間のべんきょうは28時間。
 ・ 1時間のべんきょう時間は50分。
 ・ 科目は、復読6時間、読物5時間、書きとりと作文3時間(国語にあたります)、珠算(そろばん)とひっ算はそれぞれ3時間(算数にあたります)、問答2時間(地理や理科ににています)、口授1時間(道徳ににています)の8つでした。
 子守や手伝い学校ができても、学校へかよえる子供は、あまり多くはいませんでした。
 1878年(明治11)に、学校へかよっていた子供は、新潟県全体でも、男子は、やく30パーセント、女子は、やく  10パーセントでした。
 それは、くらしがまずしかったことや、子供もたいせつな働き手だったからです。とくに、女子には学問はいらないという考えの人が多く、自分の家や近く家の子守や手つだいをしている女子が多くいました。
 1882年(明治15)ころ、新潟県内で、学校へかよっていた子供について調べてみると、新潟でやく62パーセント、高田でやく56パーセント、長岡でやく49パーセント、柏崎でやく50パーセントになっています。全国の平きんは、 やく52パーセントでした。
 そこで、新潟県では、子守をしながら学校へかよってもよいことにしたり、夜間学校をひらいたり、授業料を値下げしたりするなど、すべての子供が学校にかよえるような方ほうを考えました。そのため、学校へかよう子供は少しずつふえ続けました。1888年(明治21)には、新潟県全体でやく60パーセント、1891年(明治24)には90パーセントをこえる子供たちが、学校へかようようになりました。  

信越線がとおる    1885年(明治18)、鉄道をつくる工事が、直江津からはじまりました。11月には、直江津と新井の間の線ろができ、試運転もおこなわれました。1886年(明治19)8月からは、直江津駅と関山駅の間を、1日2往復、汽車がとおるようになりました。新潟県内で、はじめてとおった汽車でしたから、見物人が、とおくからもにぎりめしをもってやってきたそうです。子供たちも、見学にでかけたということです。
 鉄道をつくるしごとは、その後も上野駅(東京都)にむけて続けられました。
 1888年(明治21)12月、直江津駅と上野駅をむすぶ信越線がとおりました。そして、朝、直江津駅をでると、夕方には上野駅につくことができるようになりました。

和田村になる     学校ができ、信越線がとおったころの和田は、下板倉村、大和村、大倉村、国明村の4か村にわかれていました。
 1901年(明治34)3月、この4つの村を、1つの村にまとめることになり、代表による話し合いがすすめられました。 そして、5月の話し合いで「和田村」とすることにきまり、7月には、正式に和田村とすることもみとめられました。