(2) 水とのたたかい 関川・矢代川の水は、わたしたちの地いきの田畑をうるおす、たいせつな農業用水としてつかわれているほか、都市用水、発電用水としてのたいせつなやくわりをはたしています。しかし、この2つの川は、大雨がふりつづくと、こう水をおこし、家や田畑をおし流してしまうあばれ川に変身しました。 @稲荷中江用水をひく 西中江用水の水不足 わたしたちの地いきのほとんど田畑は、180年以上も前につくられた「稲荷中江用水」の水をつかっています。 この稲荷中江用水がつくられる前は、「西中江用水」をつかっていました。西中江用水は、矢代川の水を堂庭(新井市)からとり入れ、矢代川にそった金谷村・などの田畑をうるおしていました。 ところが、矢代川を流れる水のりょうは、あまり多くありません。まい年、新しく田がひらかれていきます。そのため、すこし日照りがつづくと、水がたりなくなってしまいました。 そこで、もっとたくさんの用水をとりいれるために、島田新田(今の島田)から、関川の水をとりいれる工事をすることになりました。工事は、乙吉村(新井市)の庄屋伝左衛門が中心になってすすめました。 しかし、島田新田は、関川の流れからみると下流にあって、土地の高さにもちがいがあります。用水ができあがっても、水はうまく流れませんでした。そのため、せっかくほった用水も、役にたちませんでした。 高田藩主榊原政令 榊原政令は、1810年(文化10)〜1827年(文政10)までの間、高田藩の藩主をつとめた人です。その後、藩主は、政養・政愛と2代かわりましたが、その間も、政令は、藩主のしごとをおこないました。 政令は、高田藩の財政をたてなおすために、江戸(東京都)から、かごにのらずに歩いて高田までくるなど、自らつつましいくらしをおくるほか、いろいろな仕事にとりくみました。政令のころにおこなわれた、おもなことは、つぎのとおりです。 ・ それまでの10年間の年貢などの税を平きんし、それをはこぶことなども考えて額をきめる定免法にあらためる。 ・ 稲荷中江用水をつくる。 ・ 新掘川のはい水ろをつくる。 ・ 犀浜に木をうえる。 ・ 赤倉温泉をひらく。 ・ べんきょうすることをすすめ、学者をまねいたり、いっしょうけんめいべんきょうしている人を役人にとりたてる。 稲荷中江用水 1809年(文化6)2月、村々の庄屋たちは、高田下小町(本町6丁目)にすんでいた塚田五郎右衛門に、「西中江用水をこれまでより役にたつ用水にしたい」とそうだんしました。五郎右衛門も、荒れ地に用水をひいて、こまっている人々を救いたいと考えていました。そこで、高田藩主政敦に、「自分のお金で、用水をほらせてほしい」とねがいでて、工事にとりかかることにしました。 工事がはじまると、村々からは、「水のとり入れ口をふやしてほしい」「とり入れ口をひろくしてほしい」など、いろいろなねがいがでてきました。1つ1つのねがいを聞いていると、下流の村々では水がたりなくなってしまいます。五郎右衛門は「自分の村のことだけでなく、みんなの村のことを考えてほしい」と話してまわりました。村の人たちも、だんだんと五郎右衛門の気もちをわかってくれるようになりました。 水は、木島からとり入れることにしました。五郎右衛門は、先とうにたって、おおぜいの人夫たちをさしずし、人夫たちもいっしょうけんめいはたらきました。 そして、1年後には、だいたい用水はできあがりました。しかし、水が流れていきません。五郎右衛門は、くふうしながら、さらに、工事をすすめ、1811年(文化8)には、ようやくつくりあげることができました。 この用水のおかげで、西中江用水の下流の村々では、水がたりなくてこまることはなくなったということです。 政令は、五郎右衛門が工事をやりとげたことをたたえ、ほうびをあたえました。そして、この用水の守り神として、稲荷神社をたてさせました。これが仲町2丁目にある「河波良神社」です。用水は、この神社が稲荷をまつっているので「稲荷中江用水」、また、五郎右衛門のみょう字をとって「塚田用水」とよばれました。 さらに、文化9年(1812)には、もっとひろく田畑に水がいきわたるように、用水の支流をつくりました。この用水は「稲荷小中江」とよばれました。 稲荷中江用水のとり入れ口は、1870年(明治3)には、木島から広島村(新井市)にうつされています。そして、今では、長さ20キロメートルにわたる用水がうるお す田畑の広さは、500ヘクタールにものぼるといわれています。 三ケ字用水・十ケ字用水 わたしたちの地いきには、稲荷中江用水のほかにも、田畑をうるおすいくつもの用水ろがあります。 わたしたちの学校の田畑は、「三ケ字用水」という用水ろの水をとりいれて、米や野さいをそだてています。この用水は、柳井田(新井市)で矢代川の水をとりいれます。この水は、三ケ字用水をとおって、西田中・石沢・寺町や学校の田畑などをうるおしています。 関川からとり入れた水は、広島にある「せき」で、稲荷中江用水と、「十ケ字用水」「月岡用水」にわかれ、島田まではこばれていきます。十ケ字というのは、10のまちといういみで、それらのまちをとおって流れていく用水なので、十ケ字用水といいます。 十ケ字用水は、西木島にある「中位のせき」で、中箱井・下箱井・上箱井へとわかれていきます。つかわれない水は、下箱井の「やぶの」というところから、関川に流れこむようになっています。 このように、とり入れ口からひきこまれた水は、とちゅうにある「せき」で、いくつにもわかれ、田畑をうるおしながら流れていきます。そして、ふたたび、関川へともどっていくのです。 川から用水ろへ水を入れる「せき」は、和田地区の人たちが、お金をだしあってつくりました。今は電気でせきをうごかしていますが、電気がなかったころは、人の手でうごかしていました。 ※ これらの用水についても、どのようにしてつくられたかを調べてみましょう。 50年ほど前の用水ろのようす このころの用水ろは、今のようなコンクリートの用水ろではありませんでした。こう水がでるたびに、用水ろの流れはかわりました。こわれたところには、くいをうち、コバをならべてなおしました。用水ろにそった道は、そのたびに曲がりました。柳の木やハンの木のあるところだけは、木のおかげで土がくずれなかったので、用水ろはもとの流れのままでした。 田も、今のように耕地整理をされた田ではありません。用水ろのわきの田は、高い田やひくい田があり、曲りくねったおおきい田や、小さい田がならんでいました。田と用水ろの間のせまい道には、ダイズを植えました。これをアゼマメといいます。せまい道は、ダイズを植えるので、いっそうせまくなりました。 この道も、こう水がでるたびに流されてしまいました。大きくくずれたところには、石がきをつみあげました。石がきをつみあげる仕事は、まい年のようにくりかえされました。用水ろは、農家にとってくらしをささえるたいせつなものだったからです。それだけに、人々は、川をよごさないようにし、たいせつにまもってきたのです。 Aこう水とのたたかい 関川と矢代川のこう水 上越市は、関川が日本海に流れこむところにある市です。 新潟県と長野県の県境の山々をはじめ、上流の山地でふった雨のすべてが流れこんでくるところにひらけています。 関川は、「荒川」ともよばれ、むかしから、大水がでるとあばれ川になりました。矢代川も、大雨がふりつづくと、こう水をおこし、家や田畑をおし流してしまいました。 上越市役所の近くに大曲というところがあります。関川が大きく曲りくねっていたところという意味でついた地名だそうです。川がまがりくねって流れていることが、こう水をひきおこす理由の一つでもありました。 むかしは、矢代川はまがりくねりながら、関川にほとんど90度に合流していました。雨がふりつづくと、関川の水がふえてきます。そのため、矢代川の水は、関川に流れこめなくなり、あふれてしまったそうです。矢代川ぞいに瀬違(島田下新田のとび地)というところがあります。この地名は、こう水のたびに川の瀬がちがってしまったことからついた地名だそうです。このように、矢代川は、たびたびこう水をおこしてきました。 『和田村誌』、そのほかの資料から、江戸から大正におきた関川と矢代川のおもなこう水、そして、昭和から平成におきた関川・矢代川・そのほかの川のおもなこう水をぬきだしてみると表のとおりになります。 なお、参考にした資料により、本文と表でひ害の数がちがっていることもあります。 昭和57年のこう水 1982年(昭和57)9月、関川と、関川に流れこむ川という川がこう水になりました。関川を流れる水がいっぱいになり、関川に流れこむ川の水が流れこめなくなったからです。 わたしたちの和田でも、下新田・丸山新田・五ケ所新田・島田下新田・島田・島田上新田・木島などが水につかりました。 このこう水で、水につかった地いきは、地図のとおりで す。(地図はちょっとまってて) また、このこう水では、強い風のため稲のかかったはさがたおれされてしまいました。はさをしばったロープを、大きな木にしばりつけ、はさが流されないようにしたとも伝えられています。このこう水のひ害は、水につかった広さ1,267ヘクタール、水のはいった家9,713けんにもなりました。 7.11水害 1995年(平成7)7月11日、どしゃぶりの雨がふりました。雨は、夜もふり続きました。12日の朝には、田は一面に水をかぶっています。学校からは、「れんらくがあるまで、家でまっていてください。」と伝えられました。 先生方がつう学ろの安全をたしかめ、みなさんが登校す るとまもなく午前10時10分すぎに、関川にそった東木 島・西木島・島田上新田・島田・島田下新田・寺町・石沢・西田中・下箱井に「ひなんかんこく」がだされました。そして、午前10時45分すぎには、上箱井・中箱井・岡原・五ケ所新田・丸山新田・下新田にも「ひなんかんこく」がだされました。月岡(新井市)の堤防が切れて、こう水がおこる心ぱいがあったからです。 学校は、ひなん場所になりました。おじいさんやおばあさん、ほいくえんの子供たちが、心ぱいそうなかおでひなんしてきました。きんきゅうのひなん用のカバンをもった人もいます。そのうちに、中学や高校のおにいさんおねえさんたち、ねたきりのおじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんもひなんしてきました。ひなんしてきた人は、ぜんぶで1,046人にもなりました。体育館にはいりきれなくて、おんがく室・しちょうかく室・としょかんなども、ひなん場所になりました。 午前11時10分に月岡(新井市)の堤防が切れると、まもなく学校の3階のまどからは、東がわの地いきをちゃ色の水が、ものすごいいきおいで流れていくのがみえました。家が流されないか、とても心ぱいしました。関川に近い、東木島・西木島・島田・島田上新田などの多くの家には、ゆか上までどろ水がはいったり、ゆか下にどろ水が流れこんだりしました。田は水をかぶり、稲はどろ水の下にかくれてしまいました。 午後3時すぎには、寺町・石沢・西田中に、午後6時には、上箱井・中箱井・岡原・五ケ所新田・丸山新田・下箱井・下新田の人たちは、「ひなんかんこく」は解除されたので、家にかえっていきました。 しかし、東木島・西木島・島田上新田・島田・島田下新田には、「ひなんかんこく」が解除されないため、近くのしんせきにひなんしたり、そのまま体育館で夜をすごしたりしました。体育館の中にいる256人の人たちにとっては、むしあつく、ねぐるしい夜でした。13日の午前6時30分に「ひなんかんこく」が解除されると、自分の家にもどりました。 こう水は、上越市内を流れる関川だけでなく、保倉川・戸野目川などでもおこりました。市内全体のひ害は、つぎのようになりました。 ・ゆか上まで水がはいった家 418けん ・ゆか下に水がはいった家 1,892けん ・水がはいった小屋など 1,051けん ・水につかった田畑 630ヘクタール ・道ろなどのひ害 17か所 ・鉄道の不通 2か所 ・てい電になった家 8,800けん Bこう水をふせぐ 高田城と改しゅう工事 高田城がつくられる前、今の新箱井橋のあたり一帯は、菩提が原とよばれ、関川・矢代川・青田川などが、合流したり別れたり、またまがりくねったりしてあみの目のようになって流れ、日本海にそそいでいました。 ※ このころの、川の流れについては、新箱井橋の近く に「矢代川の移り変わり」を書いた案内板に書かれて いますから、よくみてください。 1614年(慶長19)、高田城をつくるとき、まがりく ねった流れを、城の外堀にするため、今の高田農業高等学校のあたりで、川をせきとめて青田川の流れをかえる工事をおこないました。また、関川についても、今の稲田橋のあたりまで、新しい川をほる工事がおこなわれました。 しかし、むりに流れをかえたため、しばしばこう水がおこりました。1747年(延享4)におこった関川のこう水では、多くの人が死者がでました。そのため、江戸幕府は、7,000両のお金で、ひ害をうけたところをなおしたり、流れをととのえたりする工事をおこなったと伝えられています。 『和田村誌』にも、こう水のたびに、流された堤防をつ くりなおしたことが書いてあります。 こう水で流された堤防のあとに、木の杭を何本も何本もうちこみました。もっこで土や石をはこび、俵に土をつめてどのうをつくりました。そして、杭をうちこんだところにどのうを積みかさねました。そだといって、たくさんの木の枝をしばったものを積み、そのうえに土をかぶせて堤防をかためたり、はこんだ石を石垣のように積みかさねたりして堤防をつくりなおしたそうです。 また、川除き普請といって、村の人々が力を合わせ、川がはこんでくる砂や土、石などをとりのぞく工事をおこなって、こう水をふせぐようにしていました。 大正の矢代川改しゅう工事 瀬渡橋のたもとに1915年(大正4)8月にたてられた石ひがたっています。矢代川の改しゅう工事が終わったことを記念してつくられた記念碑です。また、下箱井の新箱井橋の近くにも、この改しゅう工事が終わったことを記念してたてられた矢代川改修記念碑があります。 矢代川では、まい年のようにこう水があり、大きなひ害がでました、瀬渡橋のたもとにある記念碑には、1783年(天明3)と1898年(明治31)のこう水がもっともひどかったこと、1912年(大正元)7月にも大こう水がおこり、大きなひ害がでたことなどが書いてあります。 そこで、こう水から人の命や、家・田畑などを守るために、1913年(大正2)9月、村の人々は、新潟県知事安藤謙介に、まい年のこう水でくるしんでいるので、こう水をふせいでほしいとおねがいし、ようやく工事がおこなわれることになりました。 この改しゅう工事は、1914年(大正3)5月21日にはじまり、その年の12月23日に終わりました。新潟県と村の人々が力をあわせて、長さやく500メートルにわたる堤防を、2.4メートルの高さにする工事です。 田を買ったお金は3万6,000円、工事にかかったお金は21万4,000円の合わせて25万円、そして、のべ12万人がはたらいてできあがりました。 矢代川放水ろをつくる 1982年(昭和57)9月、台風18号のため、関川と、関川に流れこむ川という川がこう水になり、大きなひ害がでました。関川の水かさがふえ、関川に流れこんでいた川の水が流れこめなくなりました。そのため、流れこめなくなった水が、あふれてしまったからです。 こう水をふせぐためには、関川とほとんど90度で合流 している矢代川や、矢代川に流れこんでいる青田川の流れを改しゅうしなければなりません。 そこで、ほとんど90度で合流している矢代川の流れを今の流れにかえる「矢代川放水ろ」をつくる工事が計画されました。 工事は、上越市・新潟県・国(建設省)が力を合わせ、1982年(昭和57)から1987年(昭和62)まで、5年をかけておこなわれました。 その工事のおもなないようは、つぎのようになります。 ・ 矢代川の水が関川に流れやすいようにするために、新しく放水ろをつくる。 ・ 青田川も、矢代川に流れこみやすいように、川をつけかえる。 ・ 矢代川も関川も、川はばをひろげたり、川ぞこをほりさげたりして、水が流れやすくしたり、たくさんの水が流れるようにする。 ・ 新しく堤防をつくる。 ・ これまでの堤防を高くしたり、じょうぶにしたりする。 みなさんも、工事がおこなわれる前と、工事がおこなわれた後の2つの地図をくらべ、改しゅう工事について考えてみましょう。 平成の改しゅう工事 1995年(平成7)7月11日〜12日にかけてふりつづいた雨のために、7.11水害がおこりました。そして、わたしたちの和田でも大きなひ害がでました。 水害をくりかえさないために、上越市・新潟県・国(建設省)は、ひ害にあったところをなおす「河川激甚災害対策特別緊急事業」にとりかかりました。このしごとと合わせて、改しゅう工事もすすめられています。そのおもなものは、つぎのようです。 ・ 古い堤防をとりのぞき、川はばを広くし、新しい堤防をつくる。 ・ 川のそこを深く、広くほって、堤防を新しくつくりなおす。 ・ 川のそこを深く、広くほって、より多くの水が流せるようにする。 ・ 遊水池をつくる。 ・ 堤防に土をもり、堤防のはばをひろげてじょうぶにする。そこに桜の木などを植えて、みんながたのしめる場所にする。 |