2. む か し を 伝 え る も の 


(1) すわんだやま

すわんだやま  学校の南がわにある「すわんだやま」は、学校だよりの名前にもなっていますが、わたしたちにとっては、たのしい遊び場でもあります。春には、ツクシやスギナをつんだり、秋には、ドングリなどの木の実をひろったり、冬はスキーにのったりします。
 わたしたちのお父さん・お母さん、おじいさんやおばあさんたち、そして、それより前の子供の遊び場でもありました。ですから、和田小学校を卒業した人たちにとって、思い出の多い、なつかしいところです。

すわんだやまと校しゃ

 ここには、諏訪神社があります。春まつりには、のぼりが風にゆれ、春のおとずれを知らせてくれます。この「すわんだやま」のいい伝えについて、何年か前の卒業生が調べた、『地域学習のまとめ』の中に、つぎのように書いてあります。
 すわんだやまは、大同年間(806〜809年)、上箱井の人たちがつくってお祭りをしました。
 そこには、高さが20m、回りの長さが3mもある大きな松の木があり、天気のいい日にこの木にのぼると、直江津の海が見えました。
 ところが、この松の木は、1927年(昭和2)12月30日の朝、雪と強い風でたおれてしまいました。さいわいにも、小林源太さんという方が、その松の木の写真をとっておられたので、それを大きく引きのばしたものが、神社の中におさめられています。そのあと、この松の木の代わりに、2本の松が植えられて、今のようになっています。
 昔の山は、今の5〜6倍の大きさで、おじいさんやおばあさん、お父さんやお母さんが子供のころのいいあそび場で、スキーをしたりソリをしたりしていました。しかし、和田中学校をつくるために山をけずり、すなや石をかごではこび、その土で田んぼ(今のやわらぎ広場の所)をうめたので、今の大きさになったそうです。
  このすわんだやまには、諏訪神社があり、春と秋にお祭りをします。
 みなさんの中には、このすわんだやまが、寺町の近くにあるので、寺町の神社だと思っている人がいるかも知れません。しかし、この諏訪神社は上箱井の神社なのです。
 すわんだやまのことで、その向きや位置を何度か変えたという話があります。むかし、神社が山の前の方に出すぎていたので、一度うしろに下げたことがあります。そのとき、南むきになっていた神社を、北むきにしてしまったそうです。すると神さまがおこってしまったのか、稲がよくそだたなくなってしまったり、病人がたくさんでたりして、いろいろな「さいなん」がおこりました。そこで、神社の向きをもとにもどすと、わるいことは、おこらなくなったということです。


関川・矢代川の渡し場  わたしたちの地いきには、関川と矢代川が流れ、校歌にも「流れも清い二すじの 豊かな水に影うつし…」と歌われています。関川は、地いきの東がわを、南から北へと流れています。矢代川は、地いきの西がわを、南から北へと流れています。
 この関川には、わたしたちの地いきとその周辺だけをみても、広島橋・島田橋・高田大橋・今池橋などの橋があります。また、矢代川には、飛田新田橋・瀬渡橋・七ケ所橋・下板倉橋・新箱井橋があります。そして、この2つの川が合流する、その下流には中央橋もあります。
 しかし、橋ができる前、人々は、川を歩いてわたったり、渡し場で渡し船にのったりしていききしていました。

木島の渡し  木島には、板倉村田井とをむすぶ渡し場がありました。1893年(明治26)ころまで、渡し船がいききしていたそうです。

島田の渡し  島田にも、「籠淀の渡船場」という渡し場がありました。高田から関田峠をこえて信濃国(長野県)といききする人たちは、島田で渡し船にのって関川をわたり、三郷村の稲増というところににわたりました。
 この渡し場ができる前は、関川には橋がありました。
 ところが、1847年(弘化4)10月、関川のこう水のため、橋は流されてしまいました。そのため、人々は、渡し場をつくり、渡し船でいききするようにしました。
 この渡し船は、明治になっても、つかわれていました。
 1875年(明治8)7月の渡し船のりょう金は、つぎのようでした。
は こ ぶ も の
りょう金
人 (1人)
2厘
にもつ(にもつ1ことはこぶ人)
3厘
長もち(1さおとはこぶ人)
4厘
人力車(人力車とのっている人)
4厘

 1889年(明治22)9月に、島田大橋ができてからは、渡し船はつかわれなくなったそうです。しかし、この橋をわたるには、お金をはらわなければなりませんでした。1899年(明治32)11月、県道になってからは、お金をはらわなくても橋をわたれるようになりました。

中箱井の渡し場  矢代川にも、中箱井と七ケ所新田とをむすぶ渡し場があったといわれています。1682年(天和2)の記ろくの中に、「船場」と書いてあるからだそうです。七ケ所新田この渡し場は、脇野田の願通寺のうらあたりにあったそうです。

瀬端の渡し  石沢にも荒町といききする「瀬端の渡し」がありました。場所は、今の瀬渡橋よりも、もっと下流だそうです。
 1684〜1687年(貞享年間)ころまでは、ここには橋がなく、人々は「歩渡り」といって、矢代川を歩     いてわたりました。その後、1710年(宝永7)までは、「舟渡り」といって、渡し船でわたりました。
 1711年(正徳元)、高田藩の松平定重という殿さまのとき、長さが32間(57.6メートル)、はばが9尺(2.7メートル)の板の橋ができました。この橋ができてからは、参勤交代の行列にとっても、旅をする人々にとっても、とてもべんりになりました。

下座場  石沢に、下座場というところがあります。上越公民館和田分館の北がわで、むかしは、しばでおおわれていました。今は、下座場とはいわないで、二宮という人が多いそうです。下座場というわけについては、つぎのように伝えられていま  す。
 江戸時代、高田と江戸(東京都)をいききする人々は、北国街道をとおりました。この道は、高田から石沢・西田中・新井をとおり、信濃(長野県)、上野(群馬県)から江戸へとつながっていました。
 高田の殿さまは、参勤交代で江戸へいききするときも、この道をとおりました。石沢の下座場をとおり、西田中、新井へと行列をすすめていきました。殿さまが石沢をとおるとき、この地いきの大肝煎・庄屋・組頭などの村役人たちは、道にひざまづいて、おじぎをして行列を見送りをしたりむかえたりしました。
 道ばたにひざまづいて、おじぎをすることを下座といいます。そして、下座をするところを下座場といいました。そのため、石沢に、この下座場という地名がのこったわけです。   

木島の「フンヅケ田」  むかしは、人やにもつをはこぶとき、かご、うまなどの乗り物がありました。たくさんのにもつをはこぶときには、船がつかわれました。高田城に、松平光長という殿さまがいたころ、今町(直江津)と田井(板倉町)・広島(新井市)の川岸までを船がいききするくいきときめて、船による交通がさかんになるようにしてきました。このころの船の大きさは、長さ6メートルくらい、幅1メートルあまり、深さは1メートルくらいでした。米俵を50俵ほど積みこむことができました。川をくだるときは、船頭がさおをあやつって下りました。川を上るときは、船に何本かのつなをつけて、船子が土手やかわらでつなをひいて上りました。
 東木島に、御城米川原というところがあり、ここには、1806年(文化3)よりのちのことですが、高田藩の郷蔵(藩におさめる米をいれる蔵)がありました。そして、ここから米をつんだ船が、関川をくだっていきました。
 このほか、木島には「フンヅケ田」というところがあり、ここも船の発着所だったといわれています。にもつをつみこむために、田の稲をふみつけたから「フンヅケ田」という地名がついたとか、船のつく「船着田」が、いつのまにか「フンヅケ田」にかわってしまったのではないかともい  われています。
 矢代川でも、船をつかってにもつをはこびました。
 1873年(明治6)に、茶屋町に商船会社ができました。そして、たくさんのにもつをはこぶ仕事がすすめられました。しかし、矢代川は、川はばがせまく、そのうえ、  水の流れがすくないため、この仕事は、長くはつづかなか  ったそうです。
 このほかに、船ににもつをつんで、矢代川をいききしたかどうかはわかりません。
 その後、牛車や馬車で人やにもつをはこぶようになり、さらに、自動車で人やにもつをはこぶようになると、川船をつかうことはだんだんに少なくなっていきました。そして、関川をいききする船は、1897年(明治30)ころには、みられなくなったということです。

上人塚  石沢に、上人塚という塚があります。塚の大きさは、直径やく6メートル、高さ1メートルあまりで、この塚には、つぎのようないい伝えがあります。
 蓮如上人という僧は、ほとけのおしえを広めようと、いろいろなところを旅しました。そして、石沢にもやってきて、西のはしにある小さな堂に足をとめました。石沢は、矢代川の西がわに南葉山や妙高山が見える、けしきのすばらしいところです。蓮如は、この堂で数日をすごしたのち、また、どこかへいってしまいました。
 このあたりの人々は、みすぼらしい僧だけれども、とてもありがたい僧のように感じました。そして、だれいうとなく、この僧は、蓮如だということになりました。
 さらに、ふしぎなことには、この僧がたち去ったあとのことです。僧がすてたアシ(葦)で作った箸に、根がでて、葉もでてきました。しかし、そのアシは、葉がかたがわにしかついていない「片葉のアシ」でした。このアシは、だんだんにおいしげり、蓮如のおしえもまた広がっていきま  した。そこで、人々は、このことをわすれないために、塚をつくって、上人塚とよび、石碑をたてました。この片葉のアシは、みなさんのおじいさんやおばあさんのころまではあったそうですが、今はのこっていないということです。

巴御前の墓  岡原の五社神社の境内に、五輪塔があります。この塔は、巴御前、あるいは虎御前の墓と伝えられています。
 巴御前は、武術にすぐれたうつくしい人でした。平家をたおすためにたちあがった源 義仲の妻で、義仲にしたがって、武士としても義仲を助けたといわれています。義仲は、また、木曽義仲ともよばれています。
 義仲は、1180年(治承4)、平 通盛や平 維盛の軍とたたかい、この軍をやぶって京都にはいり、1184年には征夷大将軍になりました。ところが、1184年に、義仲は、源 範頼と源義経の軍とのたたかいにやぶれて、死んでしまいました。義仲が死ぬと、巴御前は尼になって、越後(新潟県)の友松にすんだと伝えられています。
 ところで、むかし、箱井・島田・岡原のあたりは、友松とよばれていました。巴御前が尼になってすんだところも友松です。どちらも友松というので、同じところではないかと考えたのだそうです。そのため、五社神社に巴御前の墓があるわけです。また、虎御前というのは、巴御前がかわった名前ではないかといわれています。