2.むかしを伝えるもの−(2)まちやむらの名前
(1) まちやむらの名前
下板倉村と大倉村
和田村は、和田村になる前は、下板倉村、大和村、大蔵村、国明村の4つの村に分かれていました。今の和田小学校の校区は、下板倉村と大蔵村のあたりになります。
下板倉村は、関川と矢代川にかこまれた地域に広がる12の村から成り立っていました。広島(新井市)、木島・島田上新田・島田・上箱井・中箱井・岡原・島田下新田・五ヶ所新田・丸山新田・下新田です。
この地域は、ずっと昔は「板倉郷」と呼ばれていました。江戸時代には、「下板倉郷」と呼ばれ、用水も一緒に使っていました。
そこで、12の村が1つの村になるとき、この「下板倉郷」であったことから、下板倉村にしたということです。また、大倉村は、矢代川や上越大通りにそった、4つの村から成り立っていました。石沢・寺町・西田中と柳井田(新井市)です。寺町は、もともとは下板倉郷でしたが、石沢・西田中と柳井田は「大崎郷」でした。」この4つの村の人たちは、用水を一緒に使っていました。
そこで、4つの村が1つの村になるとき、下板倉の「倉」と、大崎郷の「大」を1文字ずつとって、大倉村にしたということです。
その後、わたしたちの村は、どのようなうつりかわりをしてきたのでしょうか。
和田村
1901年(明治34)3月、下板倉村・大和村・大倉村・国明村の4つの村では、村を1つにまとめることになりました。そして、代表による話し合いが進められました。
1901年(明治34)5月の話し合いで、「和田村」とすることになりました。そして、和田村の名前は、7月には政府からも認められ、正式に決まりました。しかし、和田村には、下板倉村や大倉村のように、4つの村の成り立ちに結びつく名前ではありません。和田村に決めたのは、次のようなわけからでした。
まず、「和」という言葉には、「やわらぐ」「あたたか」「おだやか」「和睦(仲むつまじいこと)などのほかに、「日本」という意味もあります。
次に、村の耕地の90パーセントは、田になっています。田のつく地名も多くあります。頚城平野の中ほどで、みずみずしい稲の穂が波打っていきます。このような田の中で、村の人々が仲良く手をつないで、平和な村を作っていきましょう。
このように、「和田村」の名前には、「米作りの仕事を通して、村の人々が仲良く手をつないで、平和な村をつくりましょう」とおいう人々の強い願いがこめられていたのです。
箱井と島田
和田には、箱井、寺町、島田、岡原、木島、西田中、石沢などの15のまちがあります。それぞれのまちにも、地名がついていたわけがあります。皆さんが調べた「まちの名前がついたわけ」を整理すると、次のようになります。
むかし、上箱井、中箱井、下箱井などは、箱井という村でした。箱井は、おいしい水のでる井戸があったらか箱井になったということです。箱井が、上箱井と下箱井に分かれたのは、1604年(慶長9)からだそうです。
島田は、むかし、関川の中にあった島だったので、「島田」になったとか、関川の洪水のとき、村が島のようになったから「島田」になったなど伝えられています。そして、村が開かれたころは7,8軒の小さな村だったそうです。
島田となったわけについては、次のような話もあります。上杉謙信のころの話です。島田に島田道元という医者が住んでいました。そして、検診の病気などの手当てをしていたそうです。この道元の名字「島田」が村の名前のはじまりだということです。
1604年(慶長9)に、堀という殿様が見地をしたときの記録には、島田は「箱井村の新田」と書いてあるそうです。
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