石沢の水と人々のくらし 和田の簡易水道
水とくらし
簡易水道という言葉を知っていますか。今、みなさんは家でも学校でも、水道のじゃ口をひねって水を出し、使いたいだけの水を使うことができます。しかし、昔は、井戸を掘って井戸水を使ったり、川の水を使ったりして生活をしていました。
昭和の初め頃、矢代川の水はとてもきれいで、石沢の人達は、11月までは、飲み水以外のすべてのことに使っていたそうです。11月をすぎると、飲み水として使えるほどきれいになったそうです。
昭和12、3年ごろの話です。今の和田郵便局の近くに「大島酒屋」という酒屋さんがありました。酒はきれいな水と米で味が決まり「酒は水が命」と言われています。10月から11月になると、酒屋さんの人が瀬渡橋近くの矢代川の水をくみ、酒作りに使っていたそうです。それだけ矢代川の水がきれいだったということでしよう。
和田地区は、今のような水道水を使う前に、石沢の井戸水を管で通して全部の家庭に送り、その水を飲んだり使ったりしていたそうです。
簡易水道にくわしい石沢の近藤さんのお話をもとに、その頃の田んぼの様子やその井戸が掘られたわけなどについてまとめてみました。
土の下はたくさんの石
和田は矢代川と関川にはさまれた地域です。矢代川に近い方の地域は、ずっと昔は川原でした。ですから、土の下には、川原に行くと見られるような、みなさんの頭の大きさくらいの石がたくさんあります。石沢の地名はこのような理由でついたとも言われています。
水の多い田んぼと少ない田んぼ
昭和28年に和田地区の区画整理(田んぼの大きさを5せ=今の5a、または6せにして、農道や用水を整えること=土地改良ともいいます)が始まる前は、上越大通り(前の国道18号線)から学校にかけての田んぼは、石の上に流れてきたどろがたまり、水はけが悪かったそうです。
そのため、8畳ぐらいの小さな田んぼでは、中に入ってゆらすと、田んぼ全体がいっしょにゆれることがあったそうです。
また、どろ田のために、大人でもひざの上まで田んぼに入って仕事をしていたということです。しかし、水は十分にあったので、水の少ない田んぼにくらべると、たくさんの米がとれたそうです。
ところが、同じ石沢でも、水が少なくて困っていた地域もありました。石沢は、西田中を取り入れ口として、江戸か明治時代につくられた大江用水で、矢代川から水を引いています。しかし、以前は、7、8月には水がなくなり、9月は干ばつ(水がなくなって、田んぼの土がかたまってしまうこと)で大変困っていました。どうしても水が足りなくなると関川から水を流してもらい、1晩何万円、何十万円というお金で水を買っていました。途中で水をとられないように24時間見張りをして水の管理をしていたそうです。
このように困ることがたびたびあったので、井戸を掘って田んぼの水にあてようということになりました。井戸の水は夏にはとても冷たくなるので、水不足をおぎなうだけではなく、熱くなった田んぼを冷やすためにも大変役立ちました。
石沢の井戸
この井戸は、昭和26年に掘られました。約6Omの深さで、直径が15cm、1秒間に約3t (3000kg)の水がわき出ました。この60mの深さの土は、地下で妙高の土とずっとつながっているので、冬の間にたくさん積もる雪のおかげで、水がなくなることはないそうです。
では、なぜこの場所に井戸が掘られたのでしようか。ここは昔から少しずつ水がわき出していて、まわりがかわいていてもここだけはいつも水がたまっていたそうです。そこで、ここなら水が出るだろうと予想し、井戸を掘ることになったそうです。
実は、この地は、親鵞聖人が五智からやってきて休んだと言われる地でもあります。聖人がつえで掘ったら水が出てきたという伝説があります。
和田の多くの地の井戸水は、土の種類の関係で鉄分がたくさん入っています。そのため、あまり飲み水としてはいい水ではありませんでした。しがし、ここの井戸水は鉄分が少なく、飲み水としては、とてもよいものでした。
石沢の井戸水が和田の簡易水道に
昭和30年に、中頸城郡和田村は高田市になりました。それまでは、和田村には3つの小学校があり、和田中部小学校(今の和田小)、和田北部小学校(今の大和小)、和田南部小学校(新井栗原小)の3校でした。和田中部小学校は高田市立和田小学校になり、和田北部小学校は高田市立大和小学校になりました。
この和田村が高田市に入る時に、和田の家に飲み水を入れてほしいと市にお願いしました。この願いは、昭和36年に市議会で受け入れられ、次の年の昭和37年に、和田簡易水道組合が作られ、井戸水を水道水として使うための工事が始まりました。しかし、その頃の石沢の井戸は、和田にあるおよそ500の家に水を送るための浄水能力がありませんでした。そこで、厚生省(国)などの助けをかりて浄配水(水をきれいにして各家に送るための)設備が計画されました。
4月に始まった工事は、12月20日ごろに管を引き終わり、26日には、ためしに水を送ったそうです。年取り(12月31日)や正月には、和田の各家庭で簡易水道を使えるようになりました。
簡易水道を守る苦労
簡易水道が始まったころは、各家にメーターがありませんでした。そのため、水を送る量の調節ができずにどんどん水が流れてあふれたそうです。また、井戸水の温度が15゜Cと温かいので、水道水として使わず、雪消しに使う家がありました。そのため、近藤さんは、修理をしたり、水を止めてもらうためにたくさんの家を回ったりして、大変苦労されたそうです。
しかし、4月なってからは、メーターがついて水の量を調節できるようになりました。そこで、みんなが使う時間には大きいポンプでたくさんの水を送り、そうでない夜は小さいポンプで少ない水を送っていたそうです。
この他にも、飲み水として使えるかどうか、1日に何回も水の様子を調べたり、機械の調子が悪くないか確かめたりして、1日中働いていることも多かったそうです。
その他の使われ方
この水は、各家庭で使われるだけでなく、学校や公民館など多くの人が利用する場所でも使われました。特に、学校のプールは、いっばいにするために、たくさんの水(およそ400t=40000Okg 40Okl=400000kl)が必要です。それに、水をどんどん使っていると、水を送る力が弱くなって、他の家の水が出なくなってしまいます。そのために、プールヘ水を入れる時間は夜の10時から朝の5時までと決められていました。
この他に、防火用水としても使われていました。町内に「どろぬき」もできるいくつかの簡易消火栓があり、そこに消防のホースに合うような口を取り付けておきました。
簡易水道の頃に2回の火事があり、1回は夜で、もう1回は雪の積もった頃だったそうです。夜は小さなポンプにしておきましたが、消火の時は大きいポンプでないと水の量がたりません。そのため、夜に火事があると、ポンプ小屋まで走って行って、管の切りかえをしたそうです。また、雪の時は、ポンプをかえるために、燃えている現場を見ながら積もった雪をかき分けて小屋へ向かうこともあったそうです。とても責任のいる仕事だったようですね。
今のようになるまで
このようにして昭和37年に和田の簡易水道が始まったのですが、島田や下箱井方面の水があまりよく出なかったそうです。しかし、数年後、南本町本管を瀬違い(せちがい)の方から水を送るようになってからは、そのようなことはなくなりました。
次の年、昭和41年に城山浄水場ができ、昭和42年12月8日に、簡易水道から今の水道に切りかわりました。
和田の水道がどのようにして始まったか分かったと思います。最近では、平成10年に島田や下箱井に水を送る管が新しくなりましたね。今は何も考えずに使っているものでも、始まりがありました。その始まりは、おじいさんやおばあさんが、子供の頃や若い頃のことも多いようです。今のくらしとくらべて、違うことを見つけて、おじいさんやおばあさんに聞いてみましよう。おもしろい発見があるかもしれませんよ。
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