和田の有線放送電話
高田の放送和田が始まり
みなさんは、和田の有線放送がいつ頃始まったか知っていますか。明治、大正それとも昭和?
今から40年以上前の昭和32年、上越市が高田市と直江津市に分かれていた頃のことです。
和田農協が高田市で最初に有線放送を始めました。12月8日に開局し、l台1万円で有線を引くことができたそうです。しかし、40年前のl万円ですから、かなり高額だったにちがいありません。
形は今の有線放送電話とはちがい、大きい教科書と同じぐらいの大きさの箱で、茶色とむらさき色がまじったようなワイン色でした。まん中にスビーカーがあり、横に受話器をかけられるようになっていました。トランシーバーのように、スイッチを押して話していました。
和田農協(脇野田駅前)の事務所で交かんの仕事が始まり、放送の内容は、農協からのお知らせや農作業の仕方をおしえるもの、市や学校からのお知らせなどでした。 今も、有線放送の人が学校でみなさんのお話を聞き、それを放送で流してくださいますね。そのころも、音楽会や学芸会のようすを放送したので、おじちゃんやおばあちゃんは、とても楽しみにしていたそうです。
とても便利な有線放送電話
高田市史には、『一般農家にとって何よりもみりよくであったのは、電話交換であった。初めは交かん料はただであったのを幸い、となり近所へ「ふろはいり来てくんない」 「近ごろ顔見ないが達者かね」と、やたらに電話をかける。おかげで交かん担当職員は目をまわすしまつ..。』と書かれていました。
みなさんも知っているとおり、有線放送電話はかけても料金がいりません。そのために、有線で友達と連絡する人もいると思います。今でもそれほど便利なのですから、そのころは、たいへん便利なものだとよろこばれました。
特に雪や雨の田こわざわざ外に出なくても人と話ができるし、足が悪くて遠くの家まで行けなくても、有線ならかんたんに連絡できたわけですね。
そのころの苦労
アナウンサーの仕事は朝6時から夜の8時まででした。最初のアナウンサーは、大和地区池ノ島に住む佐藤さんという女性でした。佐藤さんはアナウンスコンクールで全国優勝したこともあるそうです。昭和30年のころは、女性で自動車のめんきょをもつ人は少なく、歩いて通っていました。ですから、農協に近い人がよかったそうです。
しかし、仕事の前や後には30分から1時間ぐらい時間がいりますから、5時半〜9時ぐらいまで仕事をすることになります。今は道路もよく除雪してありますが、そのころは雪もたくさんふり、除雪もあまりよくなかったので、毎日歩いて通うのはたいへんだったようです。
その頃、中心になって有線放送電話の仕事をしていた西田中の清水さんのお話では、放送の内容を考えるのが楽しみでもあり苦しみでもあったそうです。当時は『家の光』という雑誌の中から 「l年365日の医学」 を放送したこともあり、健康に関する内容は地域の方に喜ばれたそうです。高田市史によると「和田村の歴史」などの放送がl年続いたこともあったそうです。
そのころの有線放送電話は、1つの回線で10家庭がつながっていました。当時、台風や雪でよく線が切れたそうです。しかし、10家庭につながっているため、異常ランプがついても、どこの線が切れているか分からず、10本全部の線をしらべなければならなかったそうです。雨雪、風のときはとくに直すのがたいへんなようでした。この苦労の話については寺町の阿部徳一さんにお聞きすると分かりますよ。
この他にも、有線放送電話を使う人が多くて、電話取り次ぎの仕事がむずかしくなり、時間を決めて取り次いだこともあったそうです。
今の有線放送 電話協会へ
和田地区のようすを見て、つぎの年には、諏訪地区で放送局が開かれました。昭和40年ごろから、和田や諏訪以外の農村でも有線放送電話を入れようという声が高まりました。そして小山元一高田市長の協力もあり、ついに『高田市有線放送電話協会』ができ、有線放送電話が始まりました。
以上のことで分かるように、和田農協で始まった有線放送電話が、高田(上越)のもとになったといえるでしよう。
電話器のかたちやはたらきが少しずつかわりながら今の有線電話器になりました。
有線放送電話のことについてもっと知りたい人は、西田中の清水栄さん、みんなのおじちゃんやおばあちゃんに聞いてみてくださいね。
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