わたしたちの学校の『六十年の歩み』から和田中部国民学校のころの様子を見ることにしましょう。
「それまで、学級は、赤組と白組の2クラスでした。男子と女子が一緒に勉強をしていました。つくえは、1つのつくえに2人でならんですわりました。
和田中部国民学校になると、男子の組と女子の組に分かれて勉強しました。戦争がはげしくなるにつれて、学校の様子も大きくかわりました。講堂には、御真影といって天皇・皇后の写真、教室には、皇居(天皇・皇后のすまい)・二重橋の写真をかざりました。先生の話が、天皇のことにふれると、「気をつけ」の姿勢をとりました。また、南東の方(皇居)をむいて、おじぎをしました。 グランドでは、毎日、戦いの練習がおこなわれました。登校も下校も、団旗を先頭に、防空ずきんをかぶり、男子は、団杖をもって列を組んで通いました。級長は小隊長、班長は小隊分隊長とよばれて、しきをしていました。」(略)
学童そかい
戦争がはげしくなると、日本の大きな都市は、つぎつぎにアメリカの爆げき機による空しゅうをうけるようになりました。子供たちは、爆げきから身をまもるために、学童そかいといって、地方へひなんしてきました。1944年(昭和19には、東京都葛飾区から、やく700人の子供たちが家族とわかれて、高田市にそかいしてきました。旅館や寺にとまって市内の小学校へ通いました。しかし、高田市への空しゅうが心配されるようになると、子供たちは、ふたたび高田市のまわりの村にそかいすることになりました。
そかいしてきた葛飾区の子供たちが、和田中部国民学校で勉強したかどうかはわかりません。しかし、1945年(昭和20)7月23日には、そかいしてきた子供たちへのみまいの野菜をあつめています。
空しゅうけいほう
アメリカの爆げき機は、上越地方にもあらわれるようになりました。
1945年(昭和20)4月13日には、「空しゅうけいほう」がでました。爆げき機がとんできたからです。このとき、全校の子供たちが、上箱井にひなんしています。また、7月14日にも「けいかいけいほう」がでたため、分団(いまの町内児童会)ごとに、下校しています。
さらに、5月5日には、たくさんの工場がたちならぶ黒井の上空に、アメリカの爆げき機があらわれ、爆だんを落とした。はじめにおとされた6この爆だんは、はずれましたが、次に落とされた1個の爆だんが、黒井駅近くの倉庫にあたって爆発しました。
このばくだんで、駅で働いていた人と、農作業をしていた人の2人が死に、もう1人も病院へはこばれましたが、まもなく死にました。このほか、4人の人が大きなけがをしています。8月には、長岡市も、空しゅうで大きなひ害をうけました。
人々のくらしはだんだんに苦しくなり、「欲しがりません、勝つまでは」の標語が、町や村のいたるところにはりだされました。
※ 黒井の爆げきのほかにも、戦争と人々のくらし、出征兵士や直江津捕虜収容所など、戦争と上越市のことについて調べてみましょう。
イモごはん
戦争がはげしくなるにつれて、米や衣料など、くらしに必要なものは「配きゅう」になり、切符によってかぎられた数やりょうしか手にはいらなくなりました。
サツマイモ、だいこん、アワ、ムギ、ダイズなどをいれた、ごはんを食べました。水とんといって、カタクリ粉をねりかためたダンゴのはいっているスイトンを食べることもありました。イナゴをとって、炒ったりつくだににしたりして食べました。肉は、ほとんど食べることができず、たいていは塩づけにした魚を食べていました。
このような食事は、戦争が終わってからも、しばらく続いたということです。