(5) 和田中部小学校のころ
すみぬり教科書 1945年(昭和20)8月15日、15年も続いた戦争は
終わりました。 戦後の教育をすすめるため、連合軍総司令部(GHQ)は、 それまでの国語の教科書にでていた「兵タイゴッコ」「水兵 の母」「ハワイ海戦」などには、すみをぬって読めないよう
にしました。また、戦争や軍たいにかんけいすることばにも、 すべてすみをぬりました。
新しい教科書もできましたが、紙がたりないために、新聞 紙1ページくらいのざらざらした紙にいんさつしたものでし た。子供たちは、それを切ったりおったりして本の形にして
つかいました。
和田中部小学校 1947年(昭和22)3月、新しい教育制度がととのえ られ、小学校6か年、中学校3か年、高等学校3か年とな りました。これを「6・3・3制」といいます。1949
年(昭和24)からは、4年制の大学をくわえ、「6・3・
3・4制」となりました。
この年の4月1日、和田中部国民学校は、和田中部小学 校に校名がかわりました。
1948年(昭和23)2月20日には、木ぞうの新しい 校しゃができ、つぎの年の7月14日からは、全校給食も はじまりました。
この年の4月26日、和田中学校の校しゃができていま す。
イナゴ取り このころの子供たちは、ときどき、登校してから1時間 目のおわりころまで、「イナゴとり」をしました。つかま
えたイナゴは、用む員さんが、大きななべでにます。にた イナゴは、店に売ってお金にかえ、学用品を買うためにつ
かわれたそうです。
また、しゅくだいに「縄ない」がでました。このころ、 農家では、稲かりのあとにでた稲わら(稲のわら)をたい せつにとっておきました。稲わらで、なわ・わらじ・ぞう
り・ふかぐつなど、くらしにひつようなものを作っていた からです。子供たちは、せっせと縄をなって学校へもって
いきました。そして、その縄は、イナゴと同じように店に 売り、学用品を買ったということです。
(6) 高田市立和田小学校のころ
和田村から高田市へ 1955年(昭和30)2月1日、和田村は、高田市に合
ぺいし、高田市立和田小学校に校名がかわりました。
1950年(昭和25)、高田市は、まわりの村々との合 ぺいを進めました。同じころ、新井町(今の新井市)も、 まわりの村々との合ぺいをすすめていました。
和田村の人口は、このころ、6,600人あまりでした。 村が高田市と新井町の中ほどにあるため、1954年(昭 和29)5月5日には、高田市から、5月7日には、新井町 からも合ぺいをもうしこまれました。 村では、なん回も話し合いをかさねました。そして、9 月10日には、つぎのようにきまりました。 ■ 国賀・月岡・栗原・柳井田は、新井町に合ぺいする。 ■ 木島・島田上新田・島田・上箱井・中箱井・島田下
新田・下箱井・五ケ所新田・丸山新田・下新田・高田 新田・荒町・脇野田・今泉・土合・七ケ所新田・石沢
・寺町・西田中は、高田市に合ぺいする。 ■ 広島・上百々は、時期をみて新井町へ編入する。 そして、11月1日、柳井田・栗原・月岡・国賀は、新 井に合ぺいし、この日から新井市となりました。1955
年(昭和30)2月1日には、この4つをのぞいたほかのま
ちは、高田市になりました。同じ日、広島と上百々は、新 井市になっています。
校歌と校章 1956年(昭和31)11月17日に、創立40周年記 念式がおこなわれました。そのとき、新しい校歌(小山直 嗣作詞、小杉誠治作曲)と、校章がきまりました。この校
歌が、みなさんの歌っている校歌です。そして、校章は、 校旗の中央にえがかれています。
(7) 上越市立和田小学校
上越市になる 1971年(昭和46)4月29日、高田市と直江津市が 合ぺいして、上越市がたん生しました。わたしたちの高田 市立和田小学校も、上越市立和田小学校となりました。
では、新しい市の名前は、どうして「上越」にきまった のでしょうか。 いろいろな人々のアンケートの結果から、上越・春日山・ 直江津・高田・越後などが考えられました。 その中から、発展するすがたにふさわしいもの、地いき
のようすをあらわしているもの、だれにでも読んだり書い たりできて、したしまれるもの、ほかににたような市の名
前がないものなどの考えをもとに、市名選定審議会で話し 合いました。そして、戦国時代のはじめから、越後の南が
わを上越後とよんでいたことをもとに、「上越」ときまり ました。
焼山の爆発 1974年(昭和49)7月28日、焼山が爆発しました。
和田小学校では、ちょうど28日と29日が、5・6年生 の「親子ふれあいキャンプ」でした。笹ケ峰キャンプ場でキ ャンプをし、火打山登山をする計画をしていました。しかし、
この爆発のため、登山は、中止になってしまいました。 この爆発で、上越市内にも火山灰がふりました。そのため、
7月28日から8月3日まで、子供たちがたのしみにしてい たプールは、中止になってしまいました。
60周年のころ 1976年(昭和51)11月2日、上箱井に和田尋常高等 小学校ができてから60年たったことをいわう「創立60周 年記念式」がありました。そのころの学校のようすを、記念
誌『六十年の歩み』からぬきだしてみましょう。
毎日通る道 3年 笠原さん
わたしは、毎日学校へかようとき、西木島の横を通る道を 通って行ききします。この道は、島田上新田の子ども五人の 通学道ろです。部落の人たちは、この道を学校線と、言って
います。 じゃり道で、はばもせまく、道のまん中には草もはえてい るし、少し遠いので、雨ふりのときなど、足や洋服もどろや 雨でぬれて学校へ行くのがたいへんです。1年生の小さい人
などは、泣きべそをかいてあるいています。(略) 冬になると、雪がふりつもってこの道も、雪にかくれてし
まい、なくなってしまいます。雪分けの自動車が早く来てく れないので、部落の人たち三人でじゅん番に、朝早くから、
かんじきで、わたしたちのために道をつけてくださいます。 だから、前の日の夜に、雪がつもっても、朝学校へいくとき
には、ちゃんと、道がついています。しかし、ときどき、強 い風がふいて、ふぶきのときなどは、どうしても、道が、つ
かないことがあります。そのときは、とおまわりして、東木 島を通って学校へいくこともあります。
むかしは、島田線のバスが、通らなかったので、国道十八 号線のバスをりようしました。そのころは、バスにのる人も
いたので、おおぜいの人が、通ったそうですが、今は、小学 生と、ほいくえんの子どもたちだけが、通る道になってしま
いました。(略)
楽しい学校 4年 横田さん
(略)しゅう学旅行、運動会、プール、文化祭、まだまだ 小さい行事もたくさんあります。 わたしは、行事の中で、一番好きな行事は、文化祭です。 そのわけは、おかあさんたちが一日中あせを流して、いっし ょうけんめい作った、うどん、おしるこを食べたり、全校の
人が、作ったり書いたりしたものを、ひとつひとつ見る事が 楽しいからです。(略)
鉄きん校しゃができる 1980年(昭和55)9月、新しく鉄きんの校しゃをつく
る工事がはじまりました。そして、1982年(昭和57)3 月21日には、新しい校しゃへのひっこしも終わりました。 5月10日には、古い木ぞう校しゃとのお別れの式もおこな
われ、11月6日には、新しい校しゃができたことをいわう式
や、いわう会もおこなわれました。
1986年(昭和61)10月16日、和田尋常高等小学校 ができてから、70年たったことをいわう「創立70周年記 念式」がおこなわれました。鉄きんの校しゃができてから4 年後のことです。
この記念式の児童代表のあいさつに、木ぞう校しゃから鉄 きん校しゃへのうつりかわりが書かれています。
70周年をむかえて 児童代表 小池くん
ぼくがこの和田小学校に入学した時は、まだ木造の古い校 舎でした。まわりには桜の木やほかの木がたくさん見られま した。大変古い体育館が二つありました。
旧校舎でいちばん心に残っていることは、中庭のことです。 池には、フナ、メダカ、ゲンゴロウなどがいて楽しく遊んだ からです。冬になると、床のすき間から風が入ってきて寒く、
ストーブであたたまってすごしたことも印象に残っています。 でも、同じ寒さの中で、ぼくたちのおじいさん、おばあさ
ん、お父さん、お母さんががまんしながら勉強してきたんだ なあと思いました。
ぼくが2年生の時、新しい校舎ができて、旧校舎から新校 舎へひっこしました。つくえやいす、ロッカーなどを運び、 旧校舎をこわす時はなごりおしいような気もしましたが、そ
のおかげでとてもきれいな新校舎やりっぱな体育館、グラン ドができて、そこで勉強や運動ができるようになりました。
今年、校舎の南がわにしばふができ、観さつ池もつくられ ました。旧校舎の時と同じように楽しく遊ぶこともできます。
しばふも来年になればきれいになり、観さつ池の中には、フ ナ、メダカが入って楽しみながら勉強できると思うとうれし
くなります。(略)
やわらぎ広場 1987年(昭和62)の春から1989年(平成元)にか けて、かんきょうせいびがおこなわれ、校ていは大きくかわ りました。
このころの和田には、子供たちがたのしく安全に遊べる遊 び場がありませんでした。先生方とPTAや後えん会のみな さんが話し合い、子供たちのために遊び場をつくることにな
りました。 そして、みんなで力を合わせて、土をはこび、大きなケヤ キの木もうえました。大きなヒュームかんや、タイヤ、電し ん柱がなん本もはこびこまれました。工事につかう大きな機
械もうごいています。子供たちも、シャベルで土をほりおこ し、一輪車で土をはこびました。
このしごとは、なん日もなん日も続きました。ジャングル ジムや雲ていなども、そなえつけられました。その後、ター
ザンロープやブランコなどもととのえられていきました。 こうしてできあがったのが、「やわらぎ広場」です。これ
とあわせて、教材園やつつじベルト、ふれあいハウスなども ととのえられました。
岡原校から 120年 和田小学校は、1992年(平成4)10月17日、岡原 校ができてから120年たったことをいわう記念式がおこな われました。記念に、やわらぎの森や、金管鼓隊の楽器もと
とのえられました。 つぎの「児童よろこびのことば」(略)からは、これまで の伝統をたいせつにして、みんなで力を合わせ、いっそう明 るくたのしい学校をきずいていきましょうという、つよい気
もちが伝わってきます。