関川・矢代川の水は、和田の地いきの田畑をうるおす、たいせつな農業用水としてつかわれているほか、 都市用水、発電用水としてのたいせつなやくわりをはたしています。 しかし、この2つの川は、大雨がふりつづくと、こう水をおこし、家や田畑をおし流してしまうあばれ川に変身しました。

こう水とのたたかい

< 関川と矢代川のこう水 >
上越市は、関川が日本海に流れこむところにある市です。
新潟県と長野県の県境の山々をはじめ、上流の山地でふった雨のすべてが流れこんでくるところにひらけています。

関川は、「荒川」ともよばれ、むかしから、大水がでるとあばれ川になりました。
矢代川も、大雨がふりつづくと、こう水をおこし、家や田畑をおし流してしまいました。
上越市役所の近くに大曲というところがあります。 関川が大きく曲りくねっていたところという意味でついた地名だそうです。
川がまがりくねって流れていることが、こう水をひきおこす理由の一つでもありました。
むかしは、矢代川はまがりくねりながら、関川にほとんど90度に合流していました。

雨がふりつづくと、関川の水がふえてきます。そのため、矢代川の水は、関川に流れこめなくなり、
あふれてしまったそうです。矢代川ぞいに瀬違(島田下新田のとび地)というところがあります。
この地名は、こう水のたびに川の瀬がちがってしまったことからついた地名だそうです。
このように、矢代川は、たびたびこう水をおこしてきました。

『和田村誌』、そのほかの資料から、江戸から大正におきた関川と矢代川のおもなこう水、
そして、昭和から平成におきた関川・矢代川・そのほかの川のおもなこう水をぬきだしてみました。
ここをクリックすると年表を見る事ができます。
(なお、参考にした資料により、本文と表でひ害の数がちがっていることもあります。)


<昭和57年のこう水> 
1982年(昭和57)9月、関川と、関川に流れこむ川という川がこう水になりました。
関川を流れる水がいっぱいになり、関川に流れこむ川の水が流れこめなくなったからです。
和田でも、下新田・丸山新田・五ケ所新田・島田下新田・島田・島田上新田・木島などが水につかりました。 このこう水で、水につかった地いきは、地図のとおりです。


また、このこう水では、強い風のため稲のかかったはさがたおれされてしまいました。はさをしばったロープを、大きな木にしばりつけ、はさが流されないようにしたとも伝えられています。
このこう水のひ害は、水につかった広さ1,267ヘクタール、水のはいった家9,713けんにもなりました。


<7.11水害>
1995年(平成7)7月11日、どしゃぶりの雨がふりました。
雨は、夜もふり続きました。12日の朝には、田は一面に水をかぶっています。
学校からは、「れんらくがあるまで、家でまっていてください。」と伝えられました。
先生方がつう学ろの安全をたしかめ、みなさんが登校するとまもなく午前10時10分すぎに、
関川にそった東木島・西木島・島田上新田・島田・島田下新田・寺町・石沢・西田中・下箱井に「ひなんかんこく」がだされました。
そして、午前10時45分すぎには、上箱井・中箱井・岡原・五ケ所新田・丸山新田・下新田にも「ひなんかんこく」がだされました。
月岡(新井市)の堤防が切れて、こう水がおこる心ぱいがあったからです。

学校は、ひなん場所になりました。おじいさんやおばあさん、ほいくえんの子供たちが、心ぱいそうなかおでひなんしてきました。
きんきゅうのひなん用のカバンをもった人もいます。
そのうちに、中学や高校のおにいさんおねえさんたち、ねたきりのおじいさんやおばあさん、
お父さんやお母さんもひなんしてきました。ひなんしてきた人は、ぜんぶで1,046人にもなりました。
体育館にはいりきれなくて、おんがく室・しちょうかく室・としょかんなども、ひなん場所になりました。

午前11時10分に月岡(新井市)の堤防が切れると、まもなく学校の3階のまどからは、
東がわの地いきをちゃ色の水が、ものすごいいきおいで流れていくのがみえました。
家が流されないか、とても心ぱいしました。
関川に近い、東木島・西木島・島田・島田上新田などの多くの家には、
ゆか上までどろ水がはいったり、ゆか下にどろ水が流れこんだりしました。
田は水をかぶり、稲はどろ水の下にかくれてしまいました。

午後3時すぎには、寺町・石沢・西田中に、午後6時には、上箱井・中箱井・岡原・五ケ所新田・丸山新田・下箱井・下新田の人たちは、「ひなんかんこく」は解除されたので、家にかえっていきました。
しかし、東木島・西木島・島田上新田・島田・島田下新田には、「ひなんかんこく」が解除されないため、
近くのしんせきにひなんしたり、そのまま体育館で夜をすごしたりしました。
体育館の中にいる256人の人たちにとっては、むしあつく、ねぐるしい夜でした。
13日の午前6時30分に「ひなんかんこく」が解除されると、自分の家にもどりました。
こう水は、上越市内を流れる関川だけでなく、保倉川・戸野目川などでもおこりました。市内全体のひ害は、つぎのようになりました。

ひ  害 ひ 害 件 数
ゆか上まで水がはいった家 418けん
ゆか下に水がはいった家 1,892けん
水がはいった小屋など 1,051けん
水につかった田畑 630ヘクタール
道ろなどのひ害 17か所
鉄道の不通 2か所
てい電になった家 8,800けん


こう水をふせぐ

<高田城と改しゅう工事>
高田城がつくられる前、今の新箱井橋のあたり一帯は、菩提が原とよばれ、関川・矢代川・青田川などが、合流したり別れたり、またまがりくねったりしてあみの目のようになって流れ、日本海にそそいでいました。
*このころの、川の流れについては、新箱井橋の近くに「矢代川の移り変わり」を書いた案内板に書かれていますから、よくみてください。

1614年(慶長19)、高田城をつくるとき、まがりくねった流れを、城の外堀にするため、今の高田農業高等学校のあたりで、川をせきとめて青田川の流れをかえる工事をおこないました。
また、関川についても、今の稲田橋のあたりまで、新しい川をほる工事がおこなわれました。

しかし、むりに流れをかえたため、しばしばこう水がおこりました。
1747年(延享4)におこった関川のこう水では、多くの死者がでました。
そのため、江戸幕府は、7,000両のお金で、ひ害をうけたところをなおしたり、流れをととのえたりする工事をおこなったと伝えられています。

『和田村誌』にも、こう水のたびに、流された堤防をつくりなおしたことが書いてあります。
こう水で流された堤防のあとに、木の杭を何本も何本もうちこみました。
もっこで土や石をはこび、俵に土をつめてどのうをつくりました。
そして、杭をうちこんだところにどのうを積みかさねました。
そだといって、たくさんの木の枝をしばったものを積み、そのうえに土をかぶせて堤防をかためたり、はこんだ石を石垣のように積みかさねたりして堤防をつくりなおしたそうです。
また、川除き普請といって、村の人々が力を合わせ、川がはこんでくる砂や土、石などをとりのぞく工事をおこなって、こう水をふせぐようにしていました。

<大正の矢代川改しゅう工事>
瀬渡橋のたもとに1915年(大正4)8月にたてられた石ひがたっています。
矢代川の改しゅう工事が終わったことを記念してつくられた記念碑です。
また、下箱井の新箱井橋の近くにも、この改しゅう工事が終わったことを記念してたてられた矢代川改修記念碑があります。

矢代川では、まい年のようにこう水があり、大きなひ害がでました。
瀬渡橋のたもとにある記念碑には、1783年(天明3)と1898年(明治31)のこう水がもっともひどかったこと、1912年(大正元)7月にも大こう水がおこり、大きなひ害がでたことなどが書いてあります。
そこで、こう水から人の命や、家・田畑などを守るために、1913年(大正2)9月、村の人々は、新潟県知事安藤謙介に、まい年のこう水でくるしんでいるので、こう水をふせいでほしいとおねがいし、ようやく工事がおこなわれることになりました。
この改しゅう工事は、1914年(大正3)5月21日にはじまり、その年の12月23日に終わりました。
新潟県と村の人々が力をあわせて、長さやく500メートルにわたる堤防を、2.4メートルの高さにする工事です。
田を買ったお金は3万6,000円、工事にかかったお金は21万4,000円の合わせて25万円、そして、のべ12万人がはたらいてできあがりました。

<矢代川放水ろをつくる>
1982年(昭和57)9月、台風18号のため、関川と、関川に流れこむ川という川がこう水になり、大きなひ害がでました。
関川の水かさがふえ、関川に流れこんでいた川の水が流れこめなくなりました。
そのため、流れこめなくなった水が、あふれてしまったからです。
こう水をふせぐためには、関川とほとんど90度で合流している矢代川や、矢代川に流れこんでいる青田川の流れを改しゅうしなければなりません。


そこで、ほとんど90度で合流している矢代川の流れを今の流れにかえる「矢代川放水ろ」をつくる工事が計画されました。
工事は、上越市・新潟県・国(建設省)が力を合わせ、1982年(昭和57)から1987年(昭和62)まで、5年をかけておこなわれました。
その工事のおもなないようは、つぎのようになります。
  • 矢代川の水が関川に流れやすいようにするために、新しく放水ろをつくる。
  • 青田川も、矢代川に流れこみやすいように、川をつけかえる。
  • 矢代川も関川も、川はばをひろげたり、川ぞこをほりさげたりして、水が流れやすくしたり、たくさんの水が流れるようにする。
  • 新しく堤防をつくる。
  • これまでの堤防を高くしたり、じょうぶにしたりする。
みなさんも、工事がおこなわれる前と工事がおこなわれた後の2つの地図をくらべ、改しゅう工事について考えてみましょう。

<平成の改しゅう工事>
1995年(平成7)7月11日〜12日にかけてふりつづいた雨のために、7.11水害がおこりました。
そして、わたしたちの和田でも大きなひ害がでました。
水害をくりかえさないために、上越市・新潟県・国(建設省)は、ひ害にあったところをなおす「河川激甚災害対策特別緊急事業」にとりかかりました。
このしごとと合わせて、改しゅう工事もすすめられています。そのおもなものは、つぎのようです。


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